●お医者さんの腕
形成のドクターが見せてくれたさまざまな写真を見て、思ったことは、ドクターの腕のよしあしで患者の運命は全く変わる、へたくそな医者に当たると、なんだかすごく過酷になっちゃうんだな、ということでした。
乳ガンになっただけでも苦しいのに。
クリニックに再建の相談に来る人はさまざまなケースを抱えています。
写真資料の中には、温存とは名ばかりの、ひどいアンバランスな残し方をされてしまった人、それから再建を希望したけれど、エキスパンダーをへんな位置に入れられてしまった人、などのものが含まれていました。
彼女たちはその不満な状態から抜け出すために、このクリニックに来て、胸を作り直したのですね。
それぞれ、ずいぶんきれいに直されていました。
そういうケースを見たときのショックというのは、うまく言葉になりません。
この人は自分の最初の手術跡を見たときに、医者に何か言えたのだろうか?それとも黙って涙をのみ、「命を助けてもらったのだから」と、その”へたくそ”に対して、何も言えないでいただろうか?と、想像してしまいます。
へたくそかどうか以前に、外科医はその患者が温存後どういう状態になるか想像がつかないのかしら?という素朴な疑問も出てきます。
事前にどのぐらい説明を受けられるものなのだろう?
「あまりにもひどい変形なら、温存に意味などない」、とあたしははっきりと考えていたし、そのように告げてもいました。
でも、たとえそういうことが術前に言えていたとしても、その思い描く変形の程度ってものが、医者の思う範囲とは食い違うということがいくらでもあるだろうと思われます。
だって、患者ははじめてなんだもん。
ほかの人のケースも知らないんだもん。
それに、美しいかそうでないかは主観だし。
さらに、どこまで許容するかは個人によっても違うはず。
病巣は切り取らねばならないから、いろんな事情で形どころではなくなる、ということはあるでしょう。
胸は切りたくないに決まっているけど乳ガンは切らねばならない。外科医もなるべく小さく切りたいけど、切り残したら手術の意味が失われるわけです。
そのせめぎあいのなかで行われる温存手術というのは、なんと難しいものでしょうか。
どんなに変形しても自分の胸を残してあげたんだから、温存できてよかったですね、みたいに言われたら、どんな気持ちだろう?
もういい歳なんだから形より命だよね、みたいに周囲に思われていたとしたら、どんな気持ちだろう?
そうじゃない、と反論できたとしても、上手な形成医に恵まれなくて、なんだかとんでもないふくらみを作られて、「ほら、再建しましたよ」などと言われるなら、その人のどこにそれ以上の自分を主張するエネルギーが残っているでしょうか?
今の技術ならできるはずのことをうまくしてもらえなかった不運を、その人はどんな気持ちで受け止めるのでしょうか?
へたくそな再建をされて不満で、直しにきた患者さんの写真には、そういう、彼女たちが飲み込んだかもしれない無念がこもっているようで、あたしは頭がくらくらしました。
へたくそな”作品”には、まるで”もうぺちゃんこではないからマシでしょう”とか”がん患者なんだから贅沢をいうもんじゃない”といったぞんざいな考え方が浮き出ているようにすら思えるのです。
あたしは再建前、再建中、再建後、の写真のいろいろを見ながら、そんなことばっかり考えていました。
その他「けっこうきれいにできるもんだな」とか、「再建に健康保険がきかないのはなんとかするべきだよな」とか、冷静なことも考えるけれども、患者の感情的なものを想像するほうにほとんどのエネルギーを使っていた、という感じ。
あたしはこうして腕がいいとされるクリニックに来ているし、温存してくれた外科医の腕もよかったけれど、だからって自分は関係ないや、あたしはラッキーだからほかの人はどうでもいいや、とは思えませんでした。
あたしのラッキーなんて、たまたまのものです。
あたしが、多少人より気が強くて、自己主張ができるというのもたまたま。
今の時点で転移がないのもたまたま。
できたガンが乳ガンだったのもたまたま。
ほんの少し違えば、あたしだって医者の自己満足でしかないような温存手術や、へんな再建や、さらには不完全な治療、至らない説明、失礼な対応などをされていたかも知れないのです。
そういうことを思いながらも、「あたしはこのラッキーをうるさく主張しながら生かして行くぞ!」みたいに決心していました。