●切ってみないとわからない
「切られてみなきゃわかんないじゃん」
突如としてあたしは思いました。
そしてすべてのことがこの、「そうなってみなければわからない」という事情によってややこしくなっていることに気がつきました。
そりゃそうでしょ。
たとえばだれかと結婚するとする。
その人は結婚後態度がころっとかわる”こんなはずでは 男”のたぐいかもしれない。
あるいは順調で金持ちのときはきは最高にいい夫だけど、挫折に弱いかもしれない。
ちょっと問題がある子供が生まれたらめそめそ男になってしまってはなはだ頼りないとか、失業して収入が下がったら愚痴愚痴男にへんしーん、などのことがあるかもしれない。
だけど問題のある子供が生まれるかどうかも含めて、人生何が起きるか、どんな事態においてその人がどんな力をもつか、持たないか、あらかじめわかることなんか、わずかです。
起きちゃったら、後戻りもやり直しもきかないのよ。
おっぱい事情もそれと同じ。
あたしは体を切られたのなんか、お産のときの帝王切開ぐらいしかないのです。
そのときは痛かったけども、ちゃんと無事な赤ちゃんが出てきて、報われて、その後も子供って存在はどんどんポジティブな人生を与えてくれているわけです。
病気で悪いところを切るのは違う。
だから想像できない。
おっぱい切っても、赤ちゃん出てこないし。(当たり前じゃ!)
悪いところを”とりあえず”切るけど、それ一回でもうぜーったい大丈夫ってことでもなく。
しかも形は絶対悪くなるわけよ。
もとから、絶対誰だって「嫌っ」って思う局面なわけ。
そんなこと、体験してみなきゃわかんないじゃん。
自分がどのように感じるか、なんて。
「先生は段階を追って治療できるなら、そのほうがいい、切ってしまえば後戻りはできないからっていったのよ」
あたしは夫に言いました。
夫は自分もそう思う、といいました。早まったことをする必要はないだろう、と。 「だいたいお前、作り物の胸でもいいのか?」
「作り物もいやだが、変な形に切られるのはもっといやだ。四分の一切り取ることは確実なんだから。変な形に切られて、しかも、放射線でどのぐらい変色したり硬くなったるするかわからないんだよ。だけど個人差はあっても、温存をしたらもう再建して形を整えるというオプションはなくなる」
言っているうちに涙が出てきました。
温存で切ったあとにやっぱりこんな胸じゃいやだ、ってことだってあるだろう。
そのときはいいと思ったって、あとでそう思わなくなるかもしれない。
あるいはそれがたとえ妥協可能な範囲の変形だったとしたって、再発だってゼロじゃないんだから。
局所再発してまた切ったときのことなんか、今は考えたくないけど、そうなったらやっぱり切ることになるんだから。
そのときに全摘して、自家組織の再建に踏み切ったとしましょう。
だけどもう片方はどうだ?
もう片方の乳房は同じ環境なんだからガンが発生するリスクを抱えているわけで。
万が一こっちも切って、こっちも再建したい事態になったとしても、もう”自家組織は品切れ”なんだわよ。そしたらこっちだけシリコンでやるのか?
「品切れ!」
あたしがそこまで言うので夫は「ちょっと待てちょっと待て」とさえぎりました。「整理しよう。フローチャート作って考えよう」
それで、紙を出してフローチャートを作ってくれたのです。
つづく。