病気ってのは、できたらお付き合いしないで済ませたい、ネガティブなものですから、簡単にネガティブな想念・・・心配や不安や怖れと結びつきます。
偏見、思い込み、誤解、無理解、知識や勉強の不足による頑迷さなども、ティブな想念を加速します。
病気に対処する時、そういうものは通常利益になりませんから、なるべく公平な見方、バランスの取れた知識、冷静で論理的な考え方を採用して、バイアスはぬぐっていこう、不要な心配と必要な心配を区別せねば、と、努力している・・・・つもりなのよ、あたしは。
ええ、努力はしていますとも。
しかしね、周囲の人間も含めて全部が全部いっせーのせ、でお利口さんなことばかり考えるようにはならないのですね。
例えばすごくばかばかしいのですが、うちの母は聖路加国際病院にいわゆる”偏見”を持っていました。
彼女は聖路加と聞くだけでなんとなく”いやーな感じ”、というものを抱くのです。
そして母は”いやーな感じ”が心にのぼってきますと、迷わずそれを口に出すのであります。
「聖路加なんかで大丈夫なの?」「あの病院何だか嫌いよ」とか。
偏見ってものは、だいたいすっごく頭悪い色合いをしているものですが、母は頭悪く見えることに対して、感心するほど気にしません。
うううう。気にして欲しいよ。
母がなぜそんな偏見を抱くようになったか、というと、その病院に入院していた人で、ものすごーく感じの悪い人に会った事があったからです。
その人は、お金持ちで、”セレブも入るホテルのような聖路加”に入院していたことを自慢し、それにひきくらべて別の病院をけなす、といった無神経なことをしていたのですね。
それで何となく「わがままな金持ち相手の病院」というイメージが生じてしまっている。
理由は、たったそれだけ!なんですよ。
あと、知っている人があの病院で亡くなったりもしていますが。
病院ですからね。人が死なない病院はないよね。
「それは患者がダメなだけでしょ。患者にダメな人がいるってだけで、何で病院がダメになるのさ?」
「だって・・・」
みたいな、はなはだ子供っぽい会話をかわしながら、でもあたしは思うわけです。
この、母の”いやーな感じ”という想念そのものが、いやーなのよね、と。
たとえ意味がない、根拠もない、単なる偏見によるものでも、身近な人間の不安や不信という心の状態が、あたしのほうにもうにゃーっと伝わってくるからです。
母がその感じの悪い患者さんから与えられた不愉快によって、ネガティブな偏見を育ててしまったのと同じ理屈で、あたしは母の根拠のない偏見から、根拠のない不安感を育ててしまうかもしれない、と思ったりします。
感情やイメージは、それ自体(その根拠となるものとは別に)、物理的に伝播しちゃうような気がするのよね。
誰だってむすっとしたウエイトレスにコーヒーを差し出されたら、それだけでむすっとした気分になるじゃないですか。
その他、周囲の反応の中にはいろんなものが含有されています。
「ガンになったのは、夜更かししているからだ」とか、「ちゃんとしたものを食べてなかったのだろう」とか。(言っても仕方がないですな)
「ガンってのはもっと痩せてしまったりするのかと思った」とか。(できれば痩せたいぐらいですがな)
あたしが元気な様子を見て「もう元気になったんだね。よかったー」とか。(元気じゃなかったことは手術直後と抗癌剤治療中以外、ないんですが)
中には自分の知っている乳ガン患者が元気で働いているからという理由だけで、たいした病気ではないかのような言い方をする人もいます。「大丈夫よ。乳ガンぐらい」とか。(病態はひとりひとり違うはずなんですけども・・・・)
どの人も、全然悪気はないのです。
母も含めて、善意のかたまり。
だけど当事者はある程度神経質になっていますから、周囲の言動をことのほか細かく検証してしまいます。
あたしは、それらの言葉の中にある、この病気への誤解には、わかる範囲でそれを正したいと思う一方で、もしもその中に不要な不安や心配やおそれがあったとしたら、その想念を受け取らないように、用心したりもするのです。